違憲審査の対象@ | ||
さてさて、今日からの勉強会では、回を跨いで、違憲審査の対象というテーマについて理解に努めることになるわ。 | ||
違憲審査の対象? |
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そう。 違憲審査の対象になるか考える対象としては、大きく次の5つが挙げられるわ。 @国内法規範 A条約 B統治行為 C立法不作為 D私法行為 の5つね。 幾つかの内容については、これまでの勉強会で触れた話もあるけれど、それらの内容についても振り返りながら見ていくことにしようと思うわ。 |
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なにやら難しい言葉がズラズラと・・・。 背筋に悪寒さえ覚えてしまう今日この頃です。 |
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前回も見たけれど、まずは条文確認からね。 憲法81条を見てくれる? |
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日本国憲法第81条。 『第81条 【法令審査権と最高裁判所】 最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。』 |
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それじゃ、まずは@国内法規範からね。 この国内法規範には、81条に挙げられている『法律、命令、規則又は処分』が含まれていることになるわ。 つまり、憲法の下にある、一切の国内法規範って思ってもらっていいわ。 ただ、この条文には、さらに『処分』とあるわよね。 ここにいう『処分』とは、個別・具体的な国家行為をいうわ。 まぁ、行政法で学ぶところの行政事件訴訟法にいう『処分』が典型例になるわね。 論点として、裁判所の判決は、ここにいう『処分』にあたるのか? という問題があるんだけれど、通説的理解としては『処分』にあたると解されているわね。 この理由としては、違憲審査の対象から、司法権の作用たる判決を除外することを認める積極的理由がないこと等が挙げられているわね。 |
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まぁ、とにかくなんでもかんでも全部って憶えておくか。 | ||
なんという大雑把な抑え方ですか!! | ||
次にA条約ね。 コレは違憲審査の対象に、条約が含まれるのか? という問題ね。 |
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あ・・・成程、成程。 言われてみれば、81条の条文には『一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないか』って、なっとるね。 たしかに、この中には、条約が入っていないね。 ナニ? これミスプリ? |
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あんたじゃないんだから、そんなミスはないでしょうよ。 ただ、サルが言うように81条の条文の列挙には、条約が含まれていないわけよね。 そのため、条約が違憲審査の対象となるのか、ということが問題となるわ。 |
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いやいや、でも待って? はるか昔の勉強会の変なピラミッドで見た記憶があるなぁ。 確か、条約は、憲法より下位で、法律より上位って位置づけだったよね(憲法優位説)。 ということは、憲法より下位である以上、違憲審査の対象になるってことになるんじゃない? |
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相変わらず、藤さんは優しいですよね。 竹中さんの視線を大事に勉強会を進行してくださっているんだなぁって、見ていて感動さえ覚えてしまいます。 |
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参ったね。 クロちゃんの御眼鏡には敵わないよね。 |
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ホントに参ったね・・・です。 黒田先輩の御眼鏡には、ホントに敵わないです!! |
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そんなことないですよ。 藤さんの優しさは、皆さん、いつも目の当たりにされてみえますから、御存知なはずですよ? |
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・・・。 (あうあうあうあうあう。 わ、私のは厭味のつもりだったのですが、完全にATフィールドで無効化されているです。 黒田先輩には、ホントに敵わないです!!) |
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条約の扱いについては、今、藤さんが指摘して下さったように憲法優位説が通説的理解とされています。 この憲法優位説を前提として、条約が違憲審査の対象となるのか? という問題があるわけですが、考え方としては、2つになります。 @消極説 A積極説 @消極説によれば、憲法81条、98条1項に『条約』が書かれていないことを理由に、違憲審査の対象とはならない、とされます。 A積極説によれば、法律に準じて扱うべき、となります。 条約の国内法的効力を問題とするだけで、国際法的効力までもを問題とするものではないから違憲審査の対象としてもよい、とされるわけです。 因みに、通説的理解、判例の立場としては、A積極説とされていますね。 |
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もう少し踏み込んだ議論まで述べておくと。 自力執行力のある条約と、ない条約とでは裁判所の対応が異なることになるわ。 自力執行力のない条約の場合は、裁判所は、具体的事件に直ちに、その条約を適用することはできないが、その条約を実施するために制定された法令については、違憲審査の対象とすることとなるわ。 これに対して、自力執行力のある条約の場合は、先の考え方に照らして、国内法的には、法律と同様に捉えることができるわけだから、国民の権利・自由を直接に規制するような条約については、裁判所は法律の場合と同様に、直接、条約について審査しうると解されているわね。 |
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メモメモ!! | ||
さて。 ここで、条約が違憲審査の対象となるのかが争われた事件として、砂川事件を見ておきましょうか。 (最大判昭和34年12月16日 百選U 169事件) 実は、この砂川事件で、本来ならば見ておきたいのは一審判決の方なのよね。 一審判決は、別名「伊達判決」とも呼ばれているわ。 この名前の由来は、一審の裁判長であった伊達秋雄裁判長の名前にちなむものではあるんだけれど、日米安保条約(1960年改定前)の合憲性を否定した唯一の判決なのよね。 憲法裁判史上に名を残す画期的な判決ということで、個人的には是非抑えておいて欲しい判決文の一つだと思っているわ。 また機会があれば、じっくり見ておきたいところよね。 |
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成程・・・伊達判決ねぇ。 なかなか名前に恥じない伊達っぷりだお。 『ニューガンダムは伊達じゃない!』ってところだね。 |
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ニューガンダムなら、アクシズだって、たかが石ころ一つです!! | ||
ナカちゃんと、オネーちゃんはナニ言っているの? | ||
あうあうあうあうあう。 また、藤先輩の話に乗っかってしまったです! |
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ちょっと脱線しちゃっているみたいですので、砂川事件の最高裁の判決文を読ませて頂きますね。 『本件安全保障条約は、前述のごとく、主権国としてのわが国の存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度の政治性を有するものというべきであつて、その内容が違憲なりや否やの法的判断は、その条約を締結した内閣およびこれを承認した国会の高度の政治的ないし自由裁量的判断と表裏をなす点がすくなくない。それ故、右違憲なりや否やの法的判断は、純司法的機能をその使命とする司法裁判所の審査には、原則としてなじまない性質のものであり、従つて、一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のものであつて、それは第一次的には、右条約の締結権を有する内閣およびこれに対して承認権を有する国会の判断に従うべく、終局的には、主権を有する国民の政治的批判に委ねられるべきものであると解するを相当とする。 そして、このことは、本件安全保障条約またはこれに基く政府の行為の違憲なりや否やが、本件のように前提問題となつている場合であると否とにかかわらないのである。』 と、していますね。 |
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あれ・・・この判決文だと、安保条約が違憲かどうかについては 『純司法的機能をその使命とする司法裁判所の審査には、原則としてなじまない性質のものであり、従つて、一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のもの』 って言ってるね。 安保条約の合憲性を否定してんじゃなかったの? |
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さっき言ったじゃない。 ソレは伊達判決。 伊達判決は、一審判決って言ったでしょ? コレは、最高裁の判決文だもの。 ここでは、条約についての憲法判断を 『主権国としてのわが国の存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度の政治性を有するもの』 であるとして、審査対象外としているわ。 ただ、条約だから違憲審査の対象外としているわけではなくって、あくまでも、この安保条約の内容を考慮した上で、そこには、高度の政治性があるから、という理由で違憲審査の対象にはならない、としているわけね。 だから、先にもまとめたように、条約一般については、違憲審査の対象となる、という理解で抑えておいて欲しいわ。 因みに、この判決文で示された考え方が、統治行為論という考え方なのよね。 ただ、この砂川事件は、典型的な統治行為論というわけではなく、非典型に分類されるものなんだけど・・・うーん、じゃあ、今日は、B統治行為についても、やっちゃいましょうか。 |
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うわぁ〜。 やっちゃいますかぁっ!! |
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やっちゃう、やっちゃうっ! それじゃ、違憲審査の対象になるかが問題となるB統治行為についてね。 まずは、統治行為の定義から抑えることにするわね。 統治行為とは 『存在形式上は一応違憲審査の対象になる国家行為であっても、それが高度に政治的な性格を帯びる場合には、違憲審査の対象から外されるべきだとする見解が従来有力に唱えられてきており、統治行為論と総称されてきた』 (野中俊彦・他『憲法T・U 第5版』 有斐閣 280頁) と説明されるものね。 この統治行為とされるものとしては @内閣および国会の組織に関する基本事項 Aそれらの運営に関する基本事項 Bそれらの相互交渉に関する事項 C国家全体の運命に関する重要事項 が挙げられるわね。 |
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さっき、砂川事件は典型的な統治行為論じゃないって言ってなかった? でも砂川事件は、判決文で 『主権国としてのわが国の存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度の政治性を有するもの』 っていう判断の下、違憲審査の対象から外しているんだから、統治行為論なんじゃないの? |
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統治行為論が適用されたものであることは、そうよ。 ただ、砂川事件は典型的な統治行為論ではないとは言ったわ。 その理由について、典型的な統治行為論の判例とされる苫米地事件の判決と比較して見てみることにするわね。 |
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苫米地(トマベチ)・・・。 なんか、その風変わりな名前に聞き覚えがあるんだけど・・・。 なんでだろ・・・。 ひょっとして、これが前世の記憶ってヤツなんかな・・・。 |
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ふ、ふ、藤さん・・・。 ガレット・デ・ロワを食べた勉強会のときに検討した裁判例じゃないですか。お忘れなんですか? |
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ガレット・デ・ロワ? なんだっけ、ソレ・・・。 |
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サル、あんたねぇ・・・。 ガレット・デ・ロワはともかくとして、検討した裁判例くらいは憶えていてもらいたいものよね・・・。 あの時、検討したのは高裁判例だったんだけど、今から見るのは、あの事件の最高裁判決なのね。 事案については、あの勉強会で話したものだから割愛するわ。 忘れているなら確認しておいてね。 苫米地事件(最大判昭和35年6月8日 百選U 196事件)では、最高裁は、次のような判断を下したのね。 『日本国憲法は、立法、行政、司法の三権分立の制度を確立し、司法権はすべて裁判所の行うところとし(憲法76条1項)、また裁判所法は、裁判所は一切の法律上の争訟を裁判するものと規定し(裁判所法3条1項)、これによつて、民事、刑事のみならず行政事件についても、事項を限定せずいわゆる概括的に司法裁判所の管轄に属するものとせられ、さらに憲法は一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを審査決定する権限を裁判所に与えた(憲法81条)結果、国の立法、行政の行為は、それが法律上の争訟となるかぎり、違憲審査を含めてすべて裁判所の裁判権に服することとなつたのである。 しかし、わが憲法の三権分立の制度の下においても、司法権の行使についておのずからある限度の制約は免れないのであつて、あらゆる国家行為が無制限に司法審査の対象となるものと即断すべきでない。 直接国家統治の基本に関する高度に政治性のある国家行為のごときはたとえそれが法律上の争訟となり、これに対する有効無効の判断が法律上可能である場合であつても、かかる国家行為は裁判所の審査権の外にあり、その判断は主権者たる国民に対して政治的責任を負うところの政府、国会等の政治部門の判断に委され、最終的には国民の政治判断に委ねられているものと解すべきである。 この司法権に対する制約は、結局、三権分立の原理に由来し、当該国家行為の高度の政治性、裁判所の司法機関としての性格、裁判に必然的に随伴する手続上の制約等にかんがみ、特定の明文による規定はないけれども、司法権の憲法上の本質に内在する制約と理解すべきものである。 衆議院の解散は、衆議院議員をしてその意に反して資格を喪失せしめ、国家最高の機関たる国会の主要な一翼をなす衆議院の機能を一時的とは言え閉止するものであり、さらにこれにつづく総選挙を通じて、新な衆議院、さらに新な内閣成立の機縁を為すものであつて、その国法上の意義は重大であるのみならず、解散は、多くは内閣がその重要な政策、ひいては自己の存続に関して国民の総意を問わんとする場合に行われるものであつてその政治上の意義もまた極めて重大である。 すなわち衆議院の解散は、極めて政治性の高い国家統治の基本に関する行為であつて、かくのごとき行為について、その法律上の有効無効を審査することは司法裁判所の権限の外にありと解すべきことは既に前段説示するところによつてあきらかである。 そして、この理は、本件のごとく、当該衆議院の解散が訴訟の前提問題として主張されている場合においても同様であつて、ひとしく裁判所の審査権の外にありといわなければならない。 本件の解散が憲法7条に依拠して行われたことは本件において争いのないところであり、政府の見解は、憲法7条によつて、―すなわち憲法69条に該当する場合でなくとも、―憲法上有効に衆議院の解散を行い得るものであり、本件解散は右憲法7条に依拠し、かつ、内閣の助言と承認により適法に行われたものであるとするにあることはあきらかであつて、裁判所としては、この政府の見解を否定して、本件解散を憲法上無効なものとすることはできないのである。』 と、述べているわ。 この判決文で述べられている 『直接国家統治の基本に関する高度に政治性のある国家行為のごときはたとえそれが法律上の争訟となり、これに対する有効無効の判断が法律上可能である場合であつても、かかる国家行為は裁判所の審査権の外にあり、その判断は主権者たる国民に対して政治的責任を負うところの政府、国会等の政治部門の判断に委され、最終的には国民の政治判断に委ねられているものと解すべきである。』 とする考え方こそが、統治行為論と呼ばれる考え方なのね。 そして、本件で争われた 『衆議院の解散は、極めて政治性の高い国家統治の基本に関する行為であつて、かくのごとき行為について、その法律上の有効無効を審査することは司法裁判所の権限の外にありと解すべき』 であることから、違憲審査の対象にはならない、としているわけ。 |
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成程。 これが統治行為論の典型的な判例ってことなわけね。 ・・・ん? 非典型っていってた砂川事件とナニが違うわけ? |
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・・・成程になってないじゃないのよ。 いい? 砂川事件の判決文には、こう述べられているわよね。 『違憲なりや否やの法的判断は、純司法的機能をその使命とする司法裁判所の審査には、原則としてなじまない性質のものであり、従つて、一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のものであつて、それは第一次的には、右条約の締結権を有する内閣およびこれに対して承認権を有する国会の判断に従うべく、終局的には、主権を有する国民の政治的批判に委ねられるべきものであると解するを相当とする。』 と。 これに対して、苫米地事件の判決文では 『直接国家統治の基本に関する高度に政治性のある国家行為のごときはたとえそれが法律上の争訟となり、これに対する有効無効の判断が法律上可能である場合であつても、かかる国家行為は裁判所の審査権の外にあり、その判断は主権者たる国民に対して政治的責任を負うところの政府、国会等の政治部門の判断に委され、最終的には国民の政治判断に委ねられているものと解すべきである。 この司法権に対する制約は、結局、三権分立の原理に由来し、当該国家行為の高度の政治性、裁判所の司法機関としての性格、裁判に必然的に随伴する手続上の制約等にかんがみ、特定の明文による規定はないけれども、司法権の憲法上の本質に内在する制約と理解すべきものである。』 とされているわ。 |
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・・・違いがワカラン。 | ||
あっ! チイは見付けたよ! 砂川事件の判決文では 『一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のもの』 って述べているよね! コレって、つまり『一見極めて明白に違憲無効であると認められない』か否かについては、司法審査しているってことになるんじゃないの? |
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流石、チイちゃん。 よく気付いてくれたわ。 そういうことよね! 苫米地事件については、砂川事件のような『一見極めて明白に違憲無効』の場合には司法審査が可能であるとする縛りがかかっていないわ。 そのため、典型的な統治行為論の判例といえるわけね。 ここで、まとめておくと、統治行為論の論拠としては、判例は 『司法権に対する制約は、結局、三権分立の原理に由来し、当該国家行為の高度の政治性、裁判所の司法機関としての性格、裁判に必然的に随伴する手続上の制約等にかんがみ、特定の明文による規定はないけれども、司法権の憲法上の本質に内在する制約と理解すべきものである』 とする内在的制約説の立場を示しているわ。 ただ 『なお、統治行為論は、もともとは行政権に対する司法権の過度の干渉を牽制する理論として登場した。 したがってそれは違憲審査の対象となるか否かの議論というよりは、むしろ、より一般的に司法審査の限界論として主張されてきたものである。 今日『高度の政治性』を有する国家行為の司法審査は結局は違憲審査にほかならないし、従来も違憲審査の対象の問題として論じられることが多かったので、ここで取り上げたが、司法審査の制約法理ないし限界問題として扱うほうが、論理的には、より適切だといえる』 という指摘もなされているわね。 (野中俊彦・他『憲法T・U 第5版』 有斐閣 283頁) |
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む、む、難しいです・・・。 | ||
統治行為論は、別立てで次回に廻しても良かったかもね。 ちょっと、詰め込んじゃった感はあるかな。 |
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うーん、まぁ、ゆっくりやってもワカラナイときはワカラナイし、早くやってもワカルときはワカルってことで。 | ||
で、あんたはドッチなのよ。 | ||
あたしは、ドッチにしてもワカラナイから、そんな心配はいらない、いらない! | ||
・・・。 | ||
ウキっ! | ||
・・・ウキっ! じゃないわよっ!! |