熊本地裁平成13年5月11日判決 〜熊本ハンセン病訴訟〜 |
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事案再現するには、少し不向きに思うところがあるから、ここでは事案再現は割愛させてもらうわね。 というわけで、事案説明をザックリさせてもらうことにするわね。 本件は、ハンセン病患者に対する隔離政策について、合理的根拠がなくなったにもかかわらず、抜本的な変換がなかったとして、厚生大臣の立法不作為について、ハンセン病患者らが原告となって国賠請求を求めた事案なのね。 |
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ハンセン病患者に対する隔離政策って、どんなのだったの? | ||
熊本地裁の認定した事実によれば 『我が国においては、ハンセン病政策として絶対隔離絶滅政策が戦前より新法廃止に至るまで継続されてきた。 この絶対隔離絶滅政策とは、患者の人権・人格を無視してその存在そのものを根絶することを目的とし、 〔1〕家庭内、地域内における分離を超えて、強制的に離島・僻地の療養所に収容して外部との交流を厳しく遮断し、 〔2〕症状、感染性の有無等を問わずハンセン病患者全員を対象に、 〔3〕退所を厳しく制限して、終生の隔離を行い、 〔4〕患者作業及び子孫を絶つための優生手術を強制する という点に特徴を持つ政策であり、世界に例を見ない日本独自のものである。』 と認定しているわね。 そして、 『政策策定・遂行過程において、行政が先行し、国会による立法はそれに追随する形を採り、行政が法律をその手段として政策を遂行してきた点にも特徴がある。 さらに、絶対隔離絶滅政策は、ハンセン病患者として把握された個々の国民に療養所への入所を義務付けるものであり、個人あるいはハンセン病患者という集団に対する個別具体的な処分の集合的な実質を有している。』 としているわ。 実際に、具体的にどのような措置であったかについては、熊本地裁判決文の事実認定に詳細になされているわけだけど、さっきの関釜訴訟一審ではないけれど、歴史認識や、ハンセン病に対する理解を深めることを目的とした勉強会ではないから、そちらについての説明は控えさせてもらうわね。 |
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なんか憲法の勉強って、色々前提となる知識が求められるね・・・。 | ||
確かに、歴史認識や、前提知識が判例読解の際に必要な事案もあるわね。 まぁ、必要最小限度備えていれば、さして困ることではないと思うし、そこまで深刻な話ではないと思うけどね。 それじゃ、本件の判決文を見ていくわね。 『新法は、6条、15条及び28条が一体となって、伝染させるおそれがある患者の隔離を規定しているのであるが、いうまでもなく、これらの規定(以下「新法の隔離規定」という。)は、この居住・移転の自由を包括的に制限するものである。 ただ、新法の隔離規定によってもたらされる人権の制限は、居住・移転の自由という枠内で的確に把握し得るものではない。 ハンセン病患者の隔離は、通常極めて長期間にわたるが、たとえ数年程度に終わる場合であっても、当該患者の人生に決定的に重大な影響を与える。 ある者は、学業の中断を余儀なくされ、ある者は、職を失い、あるいは思い描いていた職業に就く機会を奪われ、ある者は、結婚し、家庭を築き、子供を産み育てる機会を失い、あるいは家族との触れ合いの中で人生を送ることを著しく制限される。 その影響の現れ方は、その患者ごとに様々であるが、いずれにしても、人として当然に持っているはずの人生のありとあらゆる発展可能性が大きく損なわれるのであり、その人権の制限は、人としての社会生活全般にわたるものである。 このような人権制限の実態は、単に居住・移転の自由の制限ということで正当には評価し尽くせず、より広く憲法13条に根拠を有する人格権そのものに対するものととらえるのが相当である。』 と述べているわよね。 先ず、ここで裁判所は、本件で争われている憲法上の権利について、これが居住移転の自由(憲法22条1項)という弱い権利ではなく、もっと強い権利、具体的には 『憲法13条に根拠を有する人格権そのもの』 であると認定しているわ。 |
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そっか・・・確かに、居住・移転の自由の侵害というより、個人の人格権そのものへの侵害だって捉えると、その保護の必要性が高まることになるね。 争われている憲法上の権利の性質が、どのようなものかって考える前の前提として、そもそも争われている権利がナニかっていうのは、しっかり認定しないといけないね! |
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そうね。 これは、新司法試験の公法系の論文問題においても同じことが言えるわ。 問題において争われている権利の認定は、すごく重要なことだからね。 全ての議論の大前提として、原告、被告が争っている憲法上の権利は、そもそもナニか、っていうことを事案から見極める必要があるからね。 簡単なようで、なかなか試験場では見極められないこともあるから、普段から判例にあたって、どのような事案で、どのような権利侵害が争われているのか、といった視点は大事にしないといけないわね。 |
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そうですね。 侵害されている権利によって、その後の基準の立て方も変わってくるわけですから、この権利の認定は重要ですね。 しっかり学びたいです。 |
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そうよね。 それじゃ、判決文の続きを読むわね。 『もっとも、これらの人権も、全く無制限のものではなく、公共の福祉による合理的な制限を受ける。しかしながら、前述した患者の隔離がもたらす影響の重大性にかんがみれば、これを認めるには最大限の慎重さをもって臨むべきであり、伝染予防のために患者の隔離以外に適当な方法がない場合でなければならず、しかも、極めて限られた特殊な疾病にのみ許されるべきものである。』 『新法制定当時の事情、特に、ハンセン病が感染し発病に至るおそれが極めて低いものであること及びこのことに対する医学関係者の認識、我が国のハンセン病の蔓延状況、ハンセン病に著効を示すプロミンの登場によって、ハンセン病が十分に治療が可能な病気となり、不治の悲惨な病気であるとの観念はもはや妥当しなくなっていたことなど、当時のハンセン病医学の状況等に照らせば、新法の隔離規定は、新法制定当時から既に、ハンセン病予防上の必要を超えて過度な人権の制限を課すものであり、公共の福祉による合理的な制限を逸脱していたというべきである。』 そして、次に続くわ。 『さらに、前記第3節第2の2で指摘した新法制定以降の事情、特に、昭和三〇年代前半までには、プロミン等スルフォン剤に対する国内外での評価が確定的なものになり、また、現実にも、スルフォン剤の登場以降、我が国において進行性の重症患者が激減していたこと、昭和三〇年から昭和三五年にかけても新発見患者数の顕著な減少が見られたこと、昭和三一年のローマ会議、昭和三三年の第七回国際らい会議(東京)及び昭和三四年のWHO第二回らい専門委員会などのハンセン病に関する国際会議の動向などからすれば、遅くとも昭和三五年には、新法の隔離規定は、その合理性を支える根拠を全く欠く状況に至っており、その違憲性は明白となっていたというべきである。』 ハンセン病を取り巻く国際状況の趨勢を認定し、 その認定に基づき、立法義務を認定。 そして違憲の瑕疵を認定という流れになっているわね。 |
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ぐう正論(=ぐうの音も出ない正論、という意)。 | ||
『在宅投票制度を廃止しこれを復活しなかった立法行為についての事案について、「国会議員の立法行為は、立法の内容が憲法の一義的な文言に違反しているにもかかわらず国会があえて当該立法を行うというごとき、容易に想定し難いような例外的な場合でない限り、国家賠償法1条1項の規定の適用上、違法の評価を受けない」と判示し、その後にも、これと同旨の最高裁判決がある。 しかしながら、右の最高裁昭和60年11月21日判決は、もともと立法裁量にゆだねられているところの国会議員の選挙の投票方法に関するものであり、患者の隔離という他に比類のないような極めて重大な自由の制限を課する新法の隔離規定に関する本件とは、全く事案を異にする。 右判決は、その論拠として、議会制民主主義や多数決原理を挙げるが、新法の隔離規定は、少数者であるハンセン病患者の犠牲の下に、多数者である一般国民の利益を擁護しようとするものであり、その適否を多数決原理にゆだねることには、もともと少数者の人権保障を脅かしかねない危険性が内在されているのであって、右論拠は、本件に全く同じように妥当するとはいえない。』 そして、昭和60年判決の規範を挙げながらも、昭和60年判決で争われた憲法上の権利は選挙権(イメージ図でいうAの類型)であり、本件は、人権の中でも、国家の裁量がより狭い自由権(イメージ図でいう@の類型)というより重要な権利であるとして、そうであるならば、人権という重要な権利に寄せて考えるべき問題である、と位置づけているわけね。 そして、この問題は多数決の原理では是正できない問題であるとしているわ。 |
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難しいこと言っているけど、なんかワカル気がする・・・。 | ||
そして、昭和60年判決の解釈から、本件事案への当てはめを行っているわ。 ここからは、いわゆる規範への当てはめという部分になるから、どのような事実を拾って評価しているのか、という視点で判決文を見て欲しいわね。 『右判決の文言からも明らかなように、「立法の内容が憲法の一義的な文言に違反している」ことは、立法行為の国家賠償法上の違法性を認めるための絶対条件とは解されない。 右一連の最高裁判決が「立法の内容が憲法の一義的な文言に違反している」との表現を用いたのも、立法行為が国家賠償法上違法と評価されるのが、極めて特殊で例外的な場合に限られるべきであることを強調しようとしたにすぎないものというべきである。』 『本件について検討するに、既に述べたとおり、新法の隔離規定は、新法制定当時から既に、ハンセン病予防上の必要を超えて過度な人権の制限を課すものであり、公共の福祉による合理的な制限を逸脱していたというべきであり、遅くとも昭和三五年には、その違憲性が明白になっていたのであるが、このことに加え、新法附帯決議が、近い将来、新法の改正を期するとしており、もともと新法制定当時から新法の隔離規定を見直すべきことが予定されていたこと、昭和三〇年代前半には、スルフォン剤の評価が確実なものとなり、これに伴い、国際的には、次第に強制隔離否定の方向性が顕著となり、昭和三一年のローマ会議以降のハンセン病の国際会議においては、ハンセン病に関する特別法の廃止が繰り返し提唱されるまでに至っていたこと、特に、昭和三三年に東京で開催された第七回国際らい会議では、「政府がいまだに強制的な隔離政策を採用しているところは、その政策を全面的に破棄するように勧奨する」等と決議されていること、さらに、昭和三八年の第八回国際らい会議では、「この病気に直接向けられた特別な法律は破棄されるべきである。 一方、法外な法律が未だ廃されていない所では、現行の法律の適用は現在の知識の線に沿ってなされなければならない。 (中略)無差別の強制隔離は時代錯誤であり、廃止されなければならない。」とされたこと、同年ころの新法改正運動の際には、全患協が、国会議員や厚生省に対し、改正要請書を提出したり新法改正を求める陳情を行うなどの活動を盛んに行っており、右陳情を受けた国会議員の中には、「政府も早急に法改正に努力しなければならない。」とか、「このような予防法があることは国として恥かしい。」と述べた者もいたほどであり、国会議員としても、このころに新法の隔離規定の適否を判断することは十分に可能であったこと、昭和三九年三月に厚生省公衆衛生局結核予防課がまとめた「らいの現状に対する考え方」(乙一一二。前記第一節第五の三)からしても、新法の隔離規定に合理性がないことが明らかであること、その他、前記第三節第二の一及び二で指摘した事情等を考慮し、新法の隔離規定が存続することによる人権被害の重大性とこれに対する司法的救済の必要性にかんがみれば、他にはおよそ想定し難いような極めて特殊で例外的な場合として、遅くとも昭和四〇年以降に新法の隔離規定を改廃しなかった国会議員の立法上の不作為につき、国家賠償法上の違法性を認めるのが相当である。』 として、国賠法上の違法を認定しているわけね。 |
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・・・どうでもいいけど、後段部分は、これで一文なんだね。 なんで判決文って、こんなに読みにくい文章にしてんだろ、とマヂレス。 |
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小説や、随筆のような人に読んでもらうことを前提にした文ではないからかしらね。 もっとも、読みにくいという点については、私も同意だけどね。 最後に、まとめ部分になるわ。 『そして、前記第3節第2の1及び2で指摘した事情等、新法の隔離規定の違憲性を判断する前提として認定した事実関係については、国会議員が調査すれば容易に知ることができたものであり、また、昭和三八年ころには、全患協による新法改正運動が行われ、国会議員や厚生省に対する陳情等の働き掛けも盛んに行われていたことなどからすれば、国会議員には過失が認められるというべきである。』 『以上のとおりであって、国会議員には、昭和四〇年以降においても、なお新法の隔離規定を改廃しなかった点に違法があり、国会議員の過失も優にこれを認めることができる。』 とするものね。 |
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パチパチパチパチパチっ!!(拍手) | ||
いい判決だよぉ。 | ||
昭和60年判決と、本件との大きな相違点が事案を、しっかり見ることで、よくわかったように思えます。 あのイメージ図の意図は、そういうものだったのですね。 立法不作為の事案が問題として出された場合に、あのイメージ図を想起して、国の裁量が広い権利なのか、狭い権利なのか、というところから、まず裁量を考え、そして、裁量の広い権利と、狭い権利とは、権利の性質が、どう違うのか、という視点がまず必要ってことですね。 そうなると、昭和60年判決が、選挙権であるのに対して、本件は人格権が問題となっている権利であると認定することで、、より国の裁量が狭い事案なんだ、という前提に立って検討することができますね。 |
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そうね。 事実、この熊本ハンセン病訴訟では、 『新法の隔離規定は、新法制定当時から既に、ハンセン病予防の必要性を超えて過度な人権の制限を課すものであり、公共の福祉による合理的制限を逸脱』 するものであるとして、国の裁量による制限は合理的制限を逸脱するものであると認定しているわ。 そして、昭和35年における厚生省の責任のみならず、とりわけ昭和40年の時点における国会の責任を明確に認めて、本件における国会の立法不作為が 『他におよそ想定し難いような極めて特殊で例外的な場合』にあたるとして、当該立法不作為が国賠法上の違法にあたるという判決を下しているわけね。 本判決の特筆すべき点としては、立法不作為で国賠法上の違法が問える場合なんて、ほぼ無いとも思えるような昭和60年判決の規範を用いながらも、本件で争われている権利の性質を勘案し、国賠法上の違法を認めるという結論を導き出していることよね。 でも、以前の勉強会でも学んだように、その後の平成17年判決が出ているから、今は、立法不作為の判断枠組みの規範としては、平成17年判決の規範を用いるべきなんだけど、この判決で示された侵害される権利の性質、という視点は非常に重要な視点よね。 そういう意味では、一義的に立法不作為を見て終わるのではなく、ここで、この裁判例を検討しておくべきだと思ったの。 |
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ありがとうございました。 立法不作為について、理解が深まったように思えます。 |
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・・・。 |
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光おねーちゃん。 なんか、オネーちゃんからダメな空気が出ている気がするよぉ。 |
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・・・。 (なげぇ判決文だったなぁ。 3行くらいで、まとめようという気はないもんだろうか。 常識的に考えて。) |
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あんた、ブレないわねぇ・・・ホント。 いつになったら、やる気を見せてくれるのよ、一体。 |
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でもハンセン病って聞くと、つい歴史好きな私なんか大谷吉継が頭に浮かんじゃいますね。 すっごく優秀な武将で、さらには友情にも厚く、部下からの信頼も厚かったとされる有名な武将なんですよね! なんだか、藤さんみたいな武将だなって思っちゃいますよね! |
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オネーちゃん、ソックリな武将さんがいるんだ・・・。 なんか、チイ、その武将さん、戦わずに逃げ出しそうな気がするよぉ。 |
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・・・。 (大谷吉継のお墓に行って、土下座してくるべき妄言です! 大谷吉継は、関ヶ原の合戦で最後まで戦い抜いて、切腹した唯一の武将です! ソレを、こともあろうか藤先輩みたいだなんて言語道断です! 黒田先輩も全然ブレてくれないです・・・一体、いつになったら藤先輩への人物評が、まともになってくれるんでしょうか。) |