最判平成元年6月20日 〜百里基地訴訟〜 伊藤正己裁判官補足意見 (ステート・アクションの法理) |
||
今回検討した判例において述べられた伊藤正己裁判官補足意見において、ステート・アクションの法理について言及されてみえるので、ここに掲載しておきます。 同法理部分については、黒太文字にしておきます。 また、いずれの勉強会で読み込む機会もあるかも知れませんが、今の時点では参考としての位置づけとしておきますね。 |
||
『(1)「国務に関するその他の行為」という表現は、その意味が必ずしも明確とはいえないが、憲法九八条一項の文理、それが最高法規と題する章におかれていることからみて、法廷意見の説示するとおり、憲法が成文法の国法形式として最も強い形式的効力を有するという実定成文法体系において憲法が最高の法規であるとの法意が示されていると解されるから、そこでいう「国務に関するその他の行為」は、例示される法律、命令、詔勅のように法規範として国の実定法秩序の一環をなすものを定立する行為を意味し、およそ国の行う行為のすべてを意味するものではないというべきである。 そうであるとすると、行政処分や裁判は具体的な国の行為であるから、それに含まれないと解する余地があるが、当裁判所は、それらが国務に関する行為に該当することを承認している(最高裁昭和二二年(れ)第一八八号同二三年七月七日大法廷判決・刑集二巻八号八〇一頁)。 これは、行政処分や裁判のように具体的な事案に対する国の行為は、当該事案に対する措置という個別的な側面とともに、それを通じて法規範の定立という意味をもつものであり、そこでこれらも国の法体系の段階構造のうちの最下位にあるとはいえ、実定法秩序の一環をなすものとしての位置づけをもちうるのであつて、その限りで国務に関する行為に当たると解するのである。 このように考えると、本件売買契約のような国の私法上の行為は、右のような意味での法規範の定立を伴うものではなく,憲法九八条一項にいう「国務に関するその他の行為」に該当するものとは解されず、原判決に所論の違法はないというべきである。なお、最高裁昭和四九年(行ツ)第七五号同五一年四月一四日大法廷判決・民集三〇巻三号二二三頁は、その判示のうちに、右条項にいう国務に関する行為を「国権行為」と表示している。その意味は必ずしも明確ではないが少なくともそれが国の私法上の行為を含まないと解していることは明らかである。 (2)右のように右条項が法規範の定立行為をとらえて憲法の最高法規性を意味しているものとすれば、そこで法律その他が「効力を有しない」ということもそれらが違憲の限度で法規範としての本来の効力を有しないとするものと解される。 例えば行政処分が憲法に反するということによりつねに絶対的に無効となるのではなく、行政処分は重大かつ明白な瑕疵がある場合に無効となるとされるが、憲法に反することは重大な瑕疵があるといつても、つねに明白な瑕疵とはいえず、憲法の解釈いかんによつて違憲かどうかがきめられることが少なくないのであつて、具体的な行政処分は、違憲であつても、当然無効の場合もあれば、当事者の主張によつて取り消される場合、相対的な無効の場合もありうると解される。裁判についても同様であり、ここではいつそう当然無効とされる場合は少なく、法定の手続にそつて裁判の効力が失わしめられるにとどまると考えられる。 法廷意見が「法規範として本来の効力を有しない」というのは、このように違憲が直ちに当然無効とならないことを示すものであり、国務に関する行為が行政処分や裁判のような具体的な法規範定立行為を含むと解する以上、効力を有しないという規定を右のように解するのが相当である。なお、右にあげた昭和五一年四月一四日大法廷判決も、九八条一項を引用しつつ、憲法に反する国権行為がつねに当然無効となるという考え方を否定していることも参照されてよいであろう。 二 右のように考えると憲法九八条一項の規定は国の私法上の行為に及ばないと解されるが、このことは、国の行う私法上の行為のすべてが、私人の行為と同じであり、憲法の直接的規律を受けないということではない。憲法的規律がどこまで及ぶかは、憲法九八条一項に関する問題ではなく、憲法という法規の性質からみてその射程範囲がどこまでか、その名宛人はなんびとかという問題である。この観点からは、私人間の私法上の行為であつても、憲法の規律が直接に及ぶと解することも可能であるし(いわゆる憲法の第三者効力の問題であるが、最高裁昭和四三年(オ)第九三二号同四八年一二月一二日大法廷判決・民集二七巻一一号一五三六頁は、憲法一四条、一九条についてこれを消極に解している)、また国が主体でなくとも、私人を主体とする行為も一定の条件のもとに国の行為とみなして、その私法上の行為について憲法の適用を認めることもありうる(いわゆる「ステート・アクシヨンの法理」参照)。同様に国の私法上の行為も憲法の直接の規律を受けることがありうるのである。当裁判所は地方公共団体が地鎮祭のための神官への報酬などの費用を支出したことの憲法適合性を審査しているが(最高裁昭和四六年(行ツ)第六九号同五二年七月一三日大法廷判決・民集三一巻四号五三三頁)、この支出行為は私法的な行為に基づくものとみられるから、右の趣旨を前提としているものと解することができる。 そして、私見によれば、国の行為は、たとえそれが私法上の行為であつても、少なくとも一定の行政目的の達成を直接的に目的とするものであるときには、それ以外にどこまで及ぶかどうかはともかくとして、私法上の行為であることを理由として憲法上の拘束を免れることができない場合もありうるものと思われる。 しかし、右のような憲法の射程範囲を考える場合にみのがしてはならないことは、私法上の行為が憲法の規定に反するという瑕疵をもつ場合にも、直ちにその私法的効力が否定されるわけでないことである。 もとより国の行為が憲法に反する以上はその効力を否定する要請が働くけれども、他方で、私法上の行為であるから私的自治の原則が認められ、私法上の行為によつて生ずる私人の権利や利益が私人の予期しない事由によつて損なわれることがないように配慮する必要があり、このような取引の安全保護の見地からは、私法上の効力を肯定する要請が働くことになる。このような点を較量しながら私法上の行為について判断することとなる。 三 憲法の諸規定は、憲法の性質上、原則として私法上の行為に直接の適用がないとしてもすべての憲法規範がそうであるとはいえず、その規定のうちには私人間で行われた私法上の行為であつても直接に拘束を及ぼすものがあると考えてよい。 例えば、奴隷的拘束を受けない自由(一八条前段)や勤労者の基本権(二八条)は、それらの規定に反する私的な行為は民法九〇条の公序違反としてその効力を否定する考え方もとれなくはないが、むしろ現代社会においては人を奴隷的拘束におく私人間の契約や、勤労者の団結権などの基本権を違法に制限する私的な行為は、直接に憲法に反すると判断してよいと思われる。もしそうであれば、これらは、国の私法的行為についても当然に妥当するであろう。 それでは憲法九条は、所論(上告理由第三点)のように私的行為に対して直接適用される規定と解釈すべきであるか。 同条は、日本国憲法の基盤をなす平和主義の原理を正文のなかの一箇条として規範化したものであり、きわめて重要な規定であることはいうまでもないが、それは、国の統治機構ないし統治活動についての基本的政策を明らかにしたものであつて、国民の私法上の権利義務と直接に関係するものとはいえない。 所論は、憲法前文及び九条の規定から平和的生存権を保障するとの解釈を抽出して、その侵害をいうが、平和的生存権をいうものの意味内容は明確ではなく、それが具体的請求権として、あるいは訴訟における違法性の判断基準として、裁判において直接に国の私法上の行為を規律する性質をもつものではないと解するのが相当である。 また所論は、自由権や平等権の諸規定は間接適用されるものであるとしても、憲法九条はその法意や位置づけからみてそれらの人権規定と異なつて直接に適用されるというが、私見によれば、そのような考え方はとるべきでなく、前述の昭和四八年一二月一二日の当裁判所の判例の判示するように憲法第三章の基本的人権の保障のような個人の権利自由にかかわる諸規定が間接適用にとどまるものとすれば、その趣旨からいつて、憲法九条が裁判規範たる性質をもつものであるとしても、統治活動にかかわる同条は、もとより国と国民との間の私法上の行為に直接に適用されるに由ないものというほかはない。 四 本件土地の売買契約に対して憲法九条の直接の適用がないとしても、同条の規定は民法九〇条にいう公序をなし憲法九条に違反した動機目的によつて締結された本件契約は公序違反として私法上無効であるという論旨(上告理由第四点)については、法廷意見の述べるところにとくに附加するところはないが、若干の私見を述べておきたい。 (1)憲法は国の基本的秩序を定めているものであるから、それは当然に民法九〇条にいう公序の一部をなすものといえる。当裁判所が私的な会社における男女の定年について五年の格差のあることを公序に反すると判示しているが(最高裁昭和五四年(オ)第七五〇号同五六年三月二四日第三小法廷判決・民集三五巻二号三〇〇頁)、そこに憲法一四条一項が引用されていることからみても、憲法の規律するところが民法上の公序をなすことを示唆しているものと思われる。憲法九条の規定は統治機構、統治活動に向けられた政治的色彩の濃い規範であるとしても、それがために公序と関係がないとはいえず、むしろ憲法秩序として重要なものであるから社会の公序を形成しているといえるであろう。 しかし、法廷意見も説示するように、私法的な価値秩序と直接の関係のない憲法規範は、そのままの内容で私法上の秩序のなかに移されて、これに反する私法上の行為を直ちに無効とするものではないと解すべきであり、すでに憲法の射程範囲について論じたところと同様に、ここでも憲法上の規律は、私法上の価値秩序との相関関係において相対化され、そのうえで民法九〇条のもとでの私法上の効力の存否を判断しなければならないことになる。とくに憲法九条のような統治機構や統治活動に密着するきわめて公法的性格の強い規範の場合にそう考えるべきである。 (2)右の観点にたつてみるとき、本件土地の売買契約は、民法九〇条の公序違反として私法上の効力を否定するだけの反社会性をもつ行為といえるか。本件契約の目的動機として自衛隊基地の建設ということが表示されているが、これが私法的な価値秩序のもとでどのような反社会性をもつかは、憲法九条の規定について互いに対立して存在する複数の解釈のうちのいずれが正当なものかを決したうえですべき判断とは必ずしもいえないのであつて,同条の解釈について国民各層にどのような解釈が存しているかという社会的状況、自衛隊が現実に存在していること及びその活動に対する社会一般の認識などの実情に即してえられるところの社会通念に照らして、私法的な価値秩序のもとでその効力を否定されるだけの反社会性を有するかどうかで判断されるべきものであると考えられる。 もとよりこのことは、憲法が国の基本構造を形成していることからみて、裁判所の判断が社会の実情にそのまま依存し追従すべきであるというのではないが、このような憲法的規律を考慮に容れてもなお、本件契約が民法九〇条に違反しないとした法廷意見の理由づけは正当であるというべきである。』 |
||